不祥事と非難と擁護と

自分は安全なところでこの記事を書いているという後ろめたさを承知で書く。

芸能人の不祥事や巷での非人道的な事件等々が明るみに出ると、それを非難する声が入り乱れる。その声に自分は違和感を覚えることが多々ある。

なぜ、その人はそうも言い切れるのか?

おそらく、不祥事に対する非難の多くは真っ当な意見だと思う。だが、その人は同じ過ちを犯さないと言う自信でもあって発信しているのだろうかと。正すべきは正すという姿勢は大切だし、やはり真っ当な意見はあるべきだが、その言い回しや匿名性によるのか昨今の非難は個人的に許容しがたい。憂さ晴らしと化したような非難にはうんざりする。

一方、非難が殺到するのに対して擁護する声も以前より拾われるようにはなった。こういう状況は好ましい反面、あくまでも不祥事であることに対する擁護のなんと難しいことかと思い知らされる。不祥事を正当化するわけにはいかない。だが、厳しさとやさしさを併せ持つコメントのなんと少ないことかと思う。

不祥事はなぜ起きるのか?結局のところ、幸せを感じられないからではないか?危うい一線を踏み越えることで現状が変わるかもしれない期待や欲求を満たされるかもしれないという漠然とした考え。おとなしく世間に従っているだけでは現状何も変わらないという焦り。皆、幸せになりたい、それだけだと思う。

追い詰められた状況があるから一歩踏み越えてしまったり、自分可愛さにうそをつくのが人間ではないかと思うことが多い。一点の曇りもない人間などいるはずがない、自分も踏み越えてしまうかもしれない…。それを認めない世間は偽善的だと。

知人はそんな自分に「偽悪的」という表現をしてくれた。

自分が矢面に立つことへの恐怖から何も言わない大多数に自分も属しているというやりきれなさ。だから、こんなところに記事を書いている。結局のところ、自分と離れた世界の出来事と思えるときにしかは強くなれないのかもしれない。

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