ぷち引きこもり

前年度末から続くストレスいっぱいの日常から逃れることができたお盆休み。極力外出をせず、メール以外のやり取りも放棄し、そのメールもこちらから発信することは必要最低限にした。食料品の買い出しも極力減らした。

それでもどうしても発生する他人とのやり取りは自分のエネルギーを消耗し、その充電に寝るしかなかった。

ここ1ヶ月ほど何かあると眠くなる。身体が睡眠を欲している。

外乱を極力排除した日々が終わると思うと憂鬱だが、だましだまし乗り切るしかない。穏やかな日常を夢見ている。

カーテン

毎年、夏と冬にカーテンを選択する。夏は厚地の方を、冬はレースの方を選択する。

今回も厚地の方を選択したのだが、その際レースのカーテンを遮熱効果のあるものに新調した。

窓際は夏熱く、冬寒い。かといって賃貸なので大掛かりな改造は割に合わないし、時間がかかる。

いずれも厚地のカーテンを閉め切ってしまえば事足りそうなのだが、部屋の中が暗すぎるのもあまり好ましくない。そこでしばらくレースのカーテンを物色していた。

結果、窓際に近づいても「もわっ」とくる暑さが幾分和らぎ、日差しも眩しさが減り、ちょうど良い感じになった。梅雨明けは今からなので本格的な猛暑にどうなるかはまだ分からない。それでもこれまでよりは快適な気がする。

交換して正解だったと思う。

不祥事と非難と擁護と

自分は安全なところでこの記事を書いているという後ろめたさを承知で書く。

芸能人の不祥事や巷での非人道的な事件等々が明るみに出ると、それを非難する声が入り乱れる。その声に自分は違和感を覚えることが多々ある。

なぜ、その人はそうも言い切れるのか?

おそらく、不祥事に対する非難の多くは真っ当な意見だと思う。だが、その人は同じ過ちを犯さないと言う自信でもあって発信しているのだろうかと。正すべきは正すという姿勢は大切だし、やはり真っ当な意見はあるべきだが、その言い回しや匿名性によるのか昨今の非難は個人的に許容しがたい。憂さ晴らしと化したような非難にはうんざりする。

一方、非難が殺到するのに対して擁護する声も以前より拾われるようにはなった。こういう状況は好ましい反面、あくまでも不祥事であることに対する擁護のなんと難しいことかと思い知らされる。不祥事を正当化するわけにはいかない。だが、厳しさとやさしさを併せ持つコメントのなんと少ないことかと思う。

不祥事はなぜ起きるのか?結局のところ、幸せを感じられないからではないか?危うい一線を踏み越えることで現状が変わるかもしれない期待や欲求を満たされるかもしれないという漠然とした考え。おとなしく世間に従っているだけでは現状何も変わらないという焦り。皆、幸せになりたい、それだけだと思う。

追い詰められた状況があるから一歩踏み越えてしまったり、自分可愛さにうそをつくのが人間ではないかと思うことが多い。一点の曇りもない人間などいるはずがない、自分も踏み越えてしまうかもしれない…。それを認めない世間は偽善的だと。

知人はそんな自分に「偽悪的」という表現をしてくれた。

自分が矢面に立つことへの恐怖から何も言わない大多数に自分も属しているというやりきれなさ。だから、こんなところに記事を書いている。結局のところ、自分と離れた世界の出来事と思えるときにしかは強くなれないのかもしれない。

溜飲を下げる

自分の動機づけの多くは”カチン”ときた人に対して留飲を下げたいがためのものが多い。何かしら自分の地雷的なものを踏まれると、それに対してしばらく根に持つ。性格的に難があるといってもいい。

留飲を下げてどうするのか?その後は相手を無視する。

つまり「お前の指摘はもう意味をなさない。二度とかかわるな」という状態にして忘れたいのだ。だから、できないことはできるようにしたいし、負けているものは勝ちに行く。ないものは作るなど、とにかくケチをつけられない状態にするために努力する。

さすがに直接的に相手に攻撃をするわけではないので、おそらく相手は何にも知らないだろうけど。

たまには運動も必要

仕事ではなく、自分の運動をたまにはするべきだ。この1週間の鬱々とした気分がすっきりした。ドーパミン駄々洩れ(笑)

窓口対応、客対応

できることなら、避けたい。何かあろうものなら心臓にも、胃にも悪い。

語気の荒い人、くどい人、話を聞いていない人、必要以上に正論を吐く人、落としどころをわきまえない人、あら捜しをする人…

ニュースでは業務上のミスや事故が報道されるが、この当事者はどんな心境なのだろうと不安になることがある。誰かが責任を取らなければならない。当事者がたいていの場合そうなるが、不可抗力で済まない場合もある。そんな時当事者は…。

テレビのこちら側にいるときは、正直それが自分でなくて良かったと安堵する。が、いつ同じ立場になるかもと思うとぞっとする。

あこがれは

ロビンソン・クルーソー

ただし、小説の後半、フライデーが登場してから話が途端につまらなくなるし、その後のロビンソンにはあこがれない。読むのもたいていそのあたりで挫折する。

現実には自分は同じような環境では生きていけないだろう。だからあこがれるのかもしれない。

自戒も含め、昨今は自身の弱さを強調する風情がある。弱さをさらすのではなく、他人に押し付ける。だから優しくしてほしいと暗示させる。押し付ける方も押しつけられる方もうっとおしい。

とか、何とかごちゃごちゃ寝ぼけ頭で考えていたら「もし世界はすべてが必然であるというならば、戦争はなぜ必然なのだろう?」

「人間を間引きするためかな」

ある人は動物の本能だと言っていた気がする。最後に生き残るのは自分でありたい、というエゴか。そのまま眠りに落ちた。

読めない名前、それ常用漢字!?の名前など

名前を間違うことは大変失礼なことである、という前提で。

間違えやすい名前、覚えにくい名前であることも問題だと思う。当て字、普段使用頻度の低い漢字、読みが多くある漢字、音的に違和感のある名前など。

中にはあまりの奇抜さに(覚えたくなくても)覚えてしまう時もあるけど。
ま、いつの時代も他の時代から見たら奇抜な名前のオンパレードなのだろうが。

漢字に関しては、「この漢字を名前に用いるんだ…」とか「立派な大人になってくれ…」とか思わずにいられない場合もよく見かける。

きっと、そんなことは考えなくてもいいんだろうなと思うことにしているが、時々頭の片隅で引っかかる。

値上げから感じること

さて、10連休とやらが終わった。これほど気の休まらない連休は初めてだったが、それは置いといて…

消費税導入等に絡み(絡まないものもあるだろうが)値上げの話題があちこちにみられる。個人的に頭が痛いのは生活必需品の値上げ。一方仕事では郵便料金の値上げが目に見えて気になるところである。

ここでは郵便料金について。

郵便事業そのものを考えると郵便料金自体は本来安いくらいなのだろうと推測する。しかし、支払う側としては「ちりも積もれば山となる」の典型で、気になるのである。
勘ぐった考え方をするならば、これは銀行の効果取り扱い手数料値上げと同じものに感じる。郵便料金の値上げは「ペーパーレス化」、銀行の手数料値上げは「キャッシュレス化」をもくろんでいるのではないかと思うのだ。いや、もっと大局的な値上げを気にしろよ!と自己突っ込みを入れつつ、ぶつくさ言っている。

時代の流れといえばそれまでだ。個人的には強い反対はない。ま、もろ手を挙げての賛成もしないが。

ところでこういった効率化を進めたときにあぶれる労働者は、どうやって生きていくのだろう?人手不足とはいえども、職に就けない人もいるし、効率という名のもとにリストラされる働き手もいるはず。

これも自己責任で片付けられてしまうのだろうか?